2014年12月16日
大手4丁目★四柱神社
地元の人も間違えることが多いですが、
“しはしらじんじゃ”ではなく、“よはしらじんじゃ” が正解。
縄手通りのほぼ中央に位置し、10月に行われる神道祭(しんとうさい)は昔から多くの人出があります。
そして、最近では初詣も人気の様子。
鳥居を出ての大行列で、新年早々たくさんの人で賑わっています。
しかし、四柱神社としての歴史は、松本城下にかかわる神社仏閣と比較すると浅く、
由来は明治7年2月筑摩県庁の所在地であった松本に、神道中教院(宮村町長松院跡、後神道事務分局)が設立され、院内に、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・高皇産霊神(たかみむすびのかみ)・神皇産霊神(かみむすびのかみ)・天照大神(あまてらすおおみかみ)の日本神話に登場する、四柱の大神が奉斎されたことに始まります。
そして、明治11年、四柱神社設立の許可を得て、翌12年には神道事務分局も新築、現在に至ります。
神社としては古事記などに登場する、歴史的な神々が祭られているのが全国的に珍しいそうで、「願ごとむすびの神」として人気が高いとの事です。
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四柱神社
松本市大手3-3-20
★大祓式・茅の輪神事 6/30
★神道祭 10/1(宵祭)・2(例祭)・3
★えびす講 11/19・20に近い土日
**********************
松本城と関わりがある事とすれば、
“しはしらじんじゃ”ではなく、“よはしらじんじゃ” が正解。
縄手通りのほぼ中央に位置し、10月に行われる神道祭(しんとうさい)は昔から多くの人出があります。
そして、最近では初詣も人気の様子。
鳥居を出ての大行列で、新年早々たくさんの人で賑わっています。
しかし、四柱神社としての歴史は、松本城下にかかわる神社仏閣と比較すると浅く、
由来は明治7年2月筑摩県庁の所在地であった松本に、神道中教院(宮村町長松院跡、後神道事務分局)が設立され、院内に、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・高皇産霊神(たかみむすびのかみ)・神皇産霊神(かみむすびのかみ)・天照大神(あまてらすおおみかみ)の日本神話に登場する、四柱の大神が奉斎されたことに始まります。
そして、明治11年、四柱神社設立の許可を得て、翌12年には神道事務分局も新築、現在に至ります。
神社としては古事記などに登場する、歴史的な神々が祭られているのが全国的に珍しいそうで、「願ごとむすびの神」として人気が高いとの事です。
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四柱神社
松本市大手3-3-20
★大祓式・茅の輪神事 6/30
★神道祭 10/1(宵祭)・2(例祭)・3
★えびす講 11/19・20に近い土日
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松本城と関わりがある事とすれば、
小さな3つの橋の存在でしょうか。
四柱神社の場所は、松本城大手門東の堀の埋め立て地であり、その堀跡を渡るために橋が架かっています。
しかし、なぜ3つも道があるのか・・・。
現在、多くの方が鳥居をくぐって通っている、「御幸橋(みゆきばし)」は、明治13年、信濃地方初めての明治天皇巡幸の際、当日に竣工されたばかりのこの石橋を渡って四柱神社に置かれた行在所へ入られたことから命名されたとか。
当時は、御幸橋は通行止めで、町の人々は、左右の堀跡を渡るための木橋を渡ったそうです。
小さい橋が3つもあって、変だなぁと思っていたんですが、そういう事情があったんですね。
写真は木橋から御幸橋を撮っていますが、当時は、水面に映る様から、「眼鏡橋」とも呼ばれていました。
さらに、鳥居をくぐって右手には、ひっそりと、大正8年に建設された
「松本市招魂殿」があります。
明治における、西郷隆盛の西南の役をはじめ、日清・日露、大東亜戦争に至るまで、多くの旧松本市出身の戦没者英霊を祀っているそうで、例祭は10月3日に行われています。
こうして四柱神社をみると、明治から戦後に至るまで、激動の時代を色濃く映しているように感じます。
けれども、現在は、冒頭にも述べたように、初詣でも人気があり、新年仕事始めには初詣りに来る会社関係の人たちも大勢見えて大混雑。神道祭やえびす講も人出が多く、賑やかな神社の一つです。
また、結婚式や七五三、初宮詣りなども良く行われ、境内で鳩と戯れる一般の参拝者や観光客の姿も入り混じる、ほのぼのとした様子が見られます。
こうした平和な姿を迎えられるのも、激動の時代を生きてきた歴史があるからですね。
四柱神社の場所は、松本城大手門東の堀の埋め立て地であり、その堀跡を渡るために橋が架かっています。
しかし、なぜ3つも道があるのか・・・。
現在、多くの方が鳥居をくぐって通っている、「御幸橋(みゆきばし)」は、明治13年、信濃地方初めての明治天皇巡幸の際、当日に竣工されたばかりのこの石橋を渡って四柱神社に置かれた行在所へ入られたことから命名されたとか。
当時は、御幸橋は通行止めで、町の人々は、左右の堀跡を渡るための木橋を渡ったそうです。
小さい橋が3つもあって、変だなぁと思っていたんですが、そういう事情があったんですね。
写真は木橋から御幸橋を撮っていますが、当時は、水面に映る様から、「眼鏡橋」とも呼ばれていました。
さらに、鳥居をくぐって右手には、ひっそりと、大正8年に建設された
「松本市招魂殿」があります。
明治における、西郷隆盛の西南の役をはじめ、日清・日露、大東亜戦争に至るまで、多くの旧松本市出身の戦没者英霊を祀っているそうで、例祭は10月3日に行われています。
こうして四柱神社をみると、明治から戦後に至るまで、激動の時代を色濃く映しているように感じます。
けれども、現在は、冒頭にも述べたように、初詣でも人気があり、新年仕事始めには初詣りに来る会社関係の人たちも大勢見えて大混雑。神道祭やえびす講も人出が多く、賑やかな神社の一つです。
また、結婚式や七五三、初宮詣りなども良く行われ、境内で鳩と戯れる一般の参拝者や観光客の姿も入り混じる、ほのぼのとした様子が見られます。
こうした平和な姿を迎えられるのも、激動の時代を生きてきた歴史があるからですね。
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